『回顧録』1995年 カナダ南北縦断4000㎞人力の旅 (その5)プリンスジョージの町に到着!

八兵衛

2019年07月22日 20:39

バンクーバーから歩き始めて約320km。
これまで難所続きだったけど、
ここからは主要ハイウェイ97号線になり、
ようやくしばらくは安心して歩ける区間が続くのだ。


思えば、海外に不慣れなしょっぱなに
難所テンコ盛り区間を設定したのは
失敗だったかな、とは思うけど
振り返ってみたら、その難所区間は
悩むヒマもないぐらいに大変で、
キビしくもワクワクでした。

冒険にはこのワクワク感が大事なのかもね。

(その1)どこを、どう行くか!?
(その2)何を持って行くか!?
(その3)バンクーバーから徒歩旅開始!
(その4)雪と沙漠とインディアン
(その5)プリンスジョージの町に到着! ←今ここ
(その6)ついに熊と遭遇!
(その7)徒歩旅の続行と終了
(その8)憧れのアラスカハイウェイを自転車で走る!
(その9)絶不調!この旅最大の失敗
(その10)夢のホワイトホース到達!
(その11)ユーコン川をカヤックで下る
(その12)北極圏を自転車で越える!
(その13)ついに北極海!
(番外編1)テズリン川カヤック旅
(番外編2)チルクート・トレイルを歩いてアラスカへ
(最終回)夢の終わり これからの現実


***

半沙漠地域はすでに通り過ぎたのだけど、
この辺りは標高1000m前後。
果てしない平原が延々とゆるやかに畝を描いて
針葉樹と牧草地の地平線を形作っている。

広い空の青と針葉樹の深緑と
乾燥した土や枯草の茶色と
足下から一本真っ直ぐに延びる
アスファルトの灰色ばっかりの風景。

そんな風景の中を朝から夕方まで歩いて、
一日に二つ三つほどの村を通り過ぎる日々が
これからしばらく続きそうだ。


●カナダの酒販売事情●

ハイウェイ97号線に入ると
70マイルハウス、100マイルハウス、150マイルハウス‥‥
という妙な地名が次々と現れる。
距離表示みたいな地名だけど
一体これはなんですか?と村人に尋ねてみたら、
100年以上昔のゴールドラッシュ時代の名残だ、
ということが分かった。

当時、このあたりから100㎞程北にあった
バーカービルという金鉱に
一攫千金を夢見た人達が歩いた道を
「ゴールドラッシュ・トレイル」というのだけど、
(僕が歩いているルートがほぼそれに当たる)


その距離表示みたいな地名は、
数日前に通ったリルエットを起点、
つまり0マイルとして、そこから測った距離を
そのまま、金鉱に向かう人々のための茶店の名前にしたのだ。
その名前がいつしか地名そのものになってしまって
今日に至っているのだそうだ。

そんな名残の70マイルハウスの村に到着したのは
雪の降りそうな寒い夕方6時直前。

僕は村に到着するなり、通りがかりの
労働者風のおじさんをつかまえて

「あの店に酒は置いてますか!?」

ジェネラルストアを指さしながら尋ねると

「当然あるで!そやけどもう6時やで!?」

(おじさんが関西弁なわけではないけど、
 風体的に「大阪のオッサン」ぽかったので。)

おじさんは腕時計を指さしながら言った。

カナダでは呑兵衛にとって「午後6時」は大事な時刻。
酒販売規制の厳しいお国柄なので、
酒を販売する店は夕方6時には閉店なのだ。
(日曜も酒販売禁止)

だから
「酒」とか「ビール」などと言わなくても
「おい、もう6時やで?」と言えば、
「酒、買ったか!?」
という意味で通じたものでした。

当時の僕はまだそれほど酒好きではなかったものの、
一日の歩行を終え、ビールで慰労をするのが
なんとなく習慣になりつつあって、
午後6時に間に合わないと、
ガッカリしたものでした。
(この頃からヒャッハー体質の片鱗が伺えますね。)

で、その70マイルハウスの宿にリュックと
買ってきた缶ビールを置いて、
夕食を食べに併設レストランに入ると、
さきほどのおじさんが居た。

おじさんは、僕を見てニヤリとしながら
「ビール買えたか?」


●70マイルハウスの老人●

食事をしていると、一人の老人が店にやってきて
店主に促されて僕の前の席に座った。

彼はこのレストランを経営している
60代ぐらいの西ドイツ人夫婦の父親らしい。
彼らは前年に西ドイツから移住してきたばかりで、
じいさんは慣れない異国でふさぎこんでいるらしかった。

きっとじいさんと同じように、
異邦人で英語の不得手な僕が話相手になるかとの思いで
じいさんを店に呼んだのだろう。

ヨボヨボのこのじいさん、
歩くのも声を出すのも大変そうだ。

「・・・若いの、遠い国から一人で来たのか。
 辛いだろう?」

「僕は好きでこの国に旅に来たんです。
 楽しいよ。」

(当時まだカナダでの旅暮らしに慣れたわけでは
 なかったけど、ここは意地を張って
 「楽しい」と言いたかったのです。)
 
このじいさん、
ドイツ訛もひどいけど、そのうえ歯抜けもひどく、
息が漏れてますます何言ってるのかよく解らないので、
ゆっくり会話を続けた。

「・・・わしはもう年だ。
 体は動かないし友人もいないし
 英語もよく解らん。辛い。ドイツに帰りたい。」

「じゃあ、どうしてカナダに来たんですか?」

「ドイツの古い友人達はみんな死んでしまったからだよ。
 わしだけが歳を取りすぎたんじゃ。
 友人はいなくなったし、
 息子たちもカナダに移住するというので
 わしも一緒に来たんだが‥‥さみしいよ。」

「後悔してるの?」

僕の英語が下手だったからか、
言葉が聞こえなかったのか、
じいさんはしばらく黙ったまま
窓の外をチラつく雪をぼんやり見ていた。

「・・・あんたは若い。旅も人生も希望ばかりだ。
 友人を大切にさえしていれば、
 いい人生が約束されるよ。
 もう寝る時間だ。
 わしは寝るよ、おやすみ。」
 
と言ってヨッコラショと席を立った。

「じいさん、あなたと話せて楽しかったよ。
 ありがとう。」

と、握手を求めると、
じいさんは僕の掌をしっかり握って目に涙を溜め、
元気でな、元気でな、と何度も言った。


***

100マイルハウスはちょっと大きな町。
(人口1000人ほど)

ちょうどこの町がバンクーバーと
プリンスジョージの中間点なので
ささやかにワインとケーキを買って
宿の部屋でお祝いをした。

ところが翌朝、この旅最悪の虚脱感に襲われた。

実はカナダに来てから、朝の起床時に
虚脱感というか倦怠感というか、

こんな地平線ばかりの旅を、
いつ熊に襲われるかもしれない行動を、
ずっと続けなければいけない虚しさとでも言うか、
朝限定なのだけど、
そういう感覚に苛まれていたのです。


2年前の日本縦断の旅までは、
どんなに辛くても泣いていても、
朝には再び気力が湧き、
「今日も歩くぞ!」と元気になってたのに
カナダでは、元気な筈の朝に、
「また今日も歩かなきゃいけないのか・・・」
と、最も恐れていた「情熱の枯渇」
意識せざるを得ないことが
何度かあったものでした。

幸い、そういうネガティブな思いは、
リュックを背負って歩き始めると消し飛び、
なんだかんだと歩き続けることが出来たけど、
この時期の「目覚めの虚脱感」は
20数年経った今でも度々夢にうなされるのです。

でも、この目覚めの虚脱感は、
この日を最後に訪れなくなり、
ようやく異国の旅を前向きに楽しめる余裕が
生まれて来ました。

その余裕が出て来た象徴的な自撮り写真がコレ↓


装備提供して貰ったモンベルのリュックが
ちゃんと写って、
かつ、自分自身もそれっぽく写り、
かつ、旅っぽい感じも表現できそうな、
という感じの想定で、
実はこのアングル写真だけで
たくさん撮影する余裕がありました。
セルフタイマーで、なりきって
カッコつけてます(^^;

2018/10/31





●ヨソ者はつらいよ●

44㎞歩いて夕方に
150マイルハウスの村に着いたら、
けだるそうな場末ふうの酒場があって、
その二階が宿になってるらしい。

カランカラーン、と
酒場のドアを開けると、
薄暗くてほこりっぽい店内には
20人程の労働者ふうの男達と
数人のオバチャンがいて賑やかだった。

が、僕が入ったとたんに
彼らの好奇や不審の視線が一斉にこちらに向けられ、
賑やかだった店内が静まった。

まあ無理もない。
旅行者などめったに来ないだろうこの村に、
大きなリュックを背負った東洋人が
突然やってきたのだから。

チクチクと痛い視線にかまわず
カウンターの奥にいる
貫禄のあるおねえちゃんに声をかけた。

「今夜、部屋は空いてますか?」

「空いてるわよ。19ドルと90セント。
 前払いね。」

「OK」

店内の客は僕をじっと見たまま、
なりゆきを見守っている。

「おまえはどこから来た?」

横のテーブルでビールを飲んでいた男が言った。

「日本からだ。
 バンクーバーから歩いて旅をしているところだ。」

「ヒュウ、歩いて?
 すごいじゃないか。俺はエドだ。」

「僕はハチベーだ。」

お互いニッと笑って握手をした。
それを見てようやく静かだった店内が
再びなごやかにざわつき始めた。

やれやれ、仕方ないけど
他所者ってのは大変だわい。


ところで、このあたりから僕の
カナダに対する「気おくれ」「遠慮」が
だいぶん減ったので、会話シーンでの意訳は
敬語が減り、タメ語が増えます。


宿にリュックを置き、
近くのスーパーに行ってみた。
スナックパークのようなスペースがあったので
そこで夕食を摂っていると、
バイト店員とその友人らしい高校生ふうの青年が
「日本人ですか?」
と話しかけてきた。

聞けば、かなりの日本通で、
忍者や空手、座禅なんかもよく知っており
2人して空手の組手を見せてくれたり
座禅の呼吸法なんかも披露してくれた。

僕なんかが空手を知ってるわけもないけど
適当にソレっぽい構えをしてみたら
2人の青年はテンション爆アゲな感じで
喜んでくれた。

ただ、よくある話なんだけど、
空手もカンフーもジャッキーチェーンも
ごちゃ混ぜになってる人が多く、
この時の青年たちは理解してくれていたけど、
カナダ滞在中何度かあったやりとりが

「よかったな!
 もうすぐ香港が君の国に帰ってくるじゃないか!」

(香港がイギリスから中国に返還される
 2年前の頃なのです。)

「香港?あれは中国の話だよ?」

「だから君の国だろう?」

「いや僕は日本人で、香港は中国ですよ?」

「うん、だから君の国だろう?」

どうも彼らは香港、中国、韓国、日本、
この4つを1つの国だと思ってる節があった。






●日本贔屓のカールおじさん一家●

ウィリアムズレイクの町で休養のため、
宿に2泊予約し、買い物と夕食を終えて部屋に戻ると
部屋のテーブルに誰かが書いたメモ紙が置いてあった。

怪しくたどたどしい日本語。

「こんにちは」
「わたしはカール」
「ニホンゴでどぞ ども またね」

メモに書いてあった電話番号に電話してみた。


翌朝、モーテル併設のレストランで食事をしていると
30代後半ぐらいのカール氏がやってきて挨拶。

自宅に連れて行かれ、
庭のBBQでもてなしてもらいながら
奥さんや娘さんを紹介され、僕も自己紹介。

見慣れない異国人が気になって仕方ないのか
5歳と3歳の娘ちゃんが、とてもカラんでくる。
そして僕の英語力だと、
5歳児と同じレベルのようで、会話がはずみ
好奇心いっぱいで色々お話してくれる。
かわいいなぁ、なごむなぁ(*^^*)


聞けばカールさん、かつてしばらく日本に滞在し、
英会話教室で講師をしていたらしく、
その時に自転車で日本中を旅した経験もあるそうなので
家の中に日本のものがたくさんある、
日本贔屓なオジサンでした。

ちびまるこちゃんのCDとか
食卓には「ワサビふりかけ」もあったっけ。

「アキナは元気か!?」と突然聞かれ、
「アキナだよアキナ、中森明菜!
 知らないのか!?」

とまくし立てる、明菜ファンなオジさん(^^;

カールさんは僕を二階の自室に招き、
キョロキョロと周りを確認して、
引出しから怪しげな本を取り出した。

「PLAY BOY」 (プレイボーイ)

御存知、ちょっとエッチな本。

「ハチベー!お前もこういうの好きだろ!?な?」

などと無理矢理見せられつつも、
まあ嫌いではないので
ウヒウヒ言いながら一緒に見る。
(おっさん二人で何をやってんねん)

こういう時の男は万国共通の表情だなぁ、
と思ってると、突然奥さんが部屋にやってきて
「あんた!またそんな本こっそり買って!」
とカールさんに説教。

夫婦のこういう時のやり取りも、
そして奥さんの方が強いのも万国共通だなぁ。

一気にテンションの下がったカールさんが
不憫でなりません・・・(^^;


●いつもの自問自答●

ハイウェイ97号線は交通量は多いし、
景色は単調だし、足にマメはできるし、
歩くのはちょっとつまらなくなってきた。

ヒマなので、歩きながらギターを弾く。
なんせ、地平線が見えそうなぐらい
見通しの良い道路なので、
マジメに景色を見ていると、
気がヘンになりそうになるのです。

以前もどこだったかで書きましたが、
徒歩旅での「地平線」というのは
頑張っても頑張っても全く景色に変化が無く
想像以上に苦しいものなのです。

なので、気を紛らすために
歩きながらギターで歌など歌ってみる。
ある日は「たのきん」縛りで歌ってみる。
(トシちゃんとかマッチね)
翌日は「新御三家」縛りで。
(ヒデキとかヒロミゴーとかね。)
(古いな!)
調子に乗れば自作の曲も弾き語る。
こう見えても?100曲ほど持ってる
「似非シンガーソングライター」なのです(^^





足のマメはいつものことだけど、
これが本当に激痛なのだ。

この日も40数キロ歩いた時点で、
あまりの痛みに耐えられず、
キャンプ場の手前数キロの地点で、
道端にヘタリこんでしまった。

それを見ていたらしい通りがかりのドライバーが
車を停車させるや僕のリュックを
勝手にヒョイッと荷台に載せ、

「キャンプ場に行くんだろ?乗っていきな!」

本当なら断れたのに、痛みに負けて
フラフラと車に乗ってしまった。
約5km程度だけど、
これはかなり後悔しました。

でも車内でドライバーと話してみると
陽気な元軍人で、

「俺、若いころヨコスカに居たんだぜ。
 日本滞在は楽しかったよ。」
「今は俺の息子が日本でバックパッカーやってるよ。」

親子そろって日本贔屓だそうだ。
キャンプ場までわずか五分程度だったけど
楽しい車内での会話。

「じゃあな。歩くのもいいけど、
 もっとエンジョイしろよ!」

束の間、楽しい気分になったものの、
再びリュックを担いで
キャンプ場内に歩いて進むのさえ、やはり激痛。

常に足の裏には10個程の水ぶくれがあって、
25㎏ほどのリュックを背負うと、
足が痛くてまともには歩けない。
立つこともままならない。
痛みのあまり涙がしぼり出てくる。

しかしこれが一週間から一ケ月ぐらい続くので、
痛いからと言ってずっと休んでいては旅が進まない。
で、耐えられるうちは
激痛をこらえて歩くことになるのである。

この旅の2年前に5ヶ月かけて
日本縦断3000㎞を歩いた時は、
一ケ月ほど、この水ぶくれが治らず
本当に苦しかったものだ。

僕の長距離徒歩旅行には
いつもこの水ぶくれの苦痛の一時期があるのだけど、
逆にこれを乗り越えたら
ゴツゴツした頼もしい足の裏になって、
どこまでも歩けるようになるのである。

とはいえ、自分でも思う。

なぜ長距離なのか。
なぜそこまで体を酷使するのか。
なぜ仕事を辞めてまで旅に出るのか。
そもそもなぜ歩くのか。

なぜだろうか。

最初は子供の頃からの冒険旅行への憧れだったし、
それは当時も変わってはいない。
それに歩くことが単純に好きでもあった。
時速4㎞というゆっくりペースは、
人と出会い、話をするのにちょうどいい速さなのだ。
自転車でさえ速すぎる、と思うぐらいだ。

だけど「好き」だとか「憧れ」だけでは、
肉体的精神的苦痛を伴う長距離徒歩旅行は
なかなか続けられない。

にもかかわらず僕が徒歩旅行を続けられたのは、
ひとつには子供の頃から小柄で引っ込み思案で
いじめられっ子で自分に自信を持てなかった僕が、
初めて自信を持てるようになったのが
徒歩旅行だったように思うからだ。

いくつもの峠を越え、色んな人と出会い、
時に他の旅人と励まし合い、
苦しんで楽しんで支えられてボロボロになって、
そしてびっくりするような距離を歩いて、
自分で設定したゴールにたどり着く時の
達成感や充実感。

その度に僕は歩く事を好きになってゆき、
同時に自分自身の事も好きになっていった。


●新聞取材を受ける●

大きなリュックを背負って毎日歩く僕を
何度も車から見かけていたらしく、
コニーさんというドイツ系女性に声を掛けられ、
家族構成のよくわからない
大家族な家に一晩泊めてもらい、
翌朝、コニーに町の新聞社に連れて行かれた。
ケネルという町でのこと。


↑コニーさんの家族と一緒に

ギターを背負った日本人徒歩旅行者、
というのが珍しがられたのか、
その町のローカル新聞
「ケネル・カリブー・オブザーバー」紙に
「Miles to go before he sleeps!」
という見出しと共に写真入りで
僕の旅が大きく紹介されたのだ。

そんなに大きくない新聞社だったけど
記者とカメラマンに囲まれて
インタビューを受けたのは初めてのことで、
緊張しつつたどたどしい英語で
あれやこれやと答えた。

↑カメラを向けられ緊張してるワシ

インタビューそのものは、まあ
ありきたりの質問と答えですぐに終わった。

新聞記者ネイル・ホーナー氏との
インタビュー後の会話。

「ところで日本のビジネスマンは
 休暇がほとんどないらしいね。」

「そう、働きすぎで死ぬ人もいる。
 カローシというんです。」

「日本人はそんなに働くことが好きなのか?」

「そうじゃない。それぐらい働かないと
 生活できないのです。」

「日本は豊かな国ではないのか?」

「父親が休日も夜遅くまで働いて、
 しかも母親もアルバイトをして、
 それでギリギリの生活なんですよ。
 これって豊かなのでしょうか。」

にわか有名人になってしまったので、
新聞読んだよ、とあちこちで声をかけられた。

記事を見た美人女子大生2人が100㎞ほど離れた町から、
「きっとこの日本人はハイウェイを歩いてるだろう」
と僕を探して会いに来てくれたりもした。
僕はデレデレだったに違いない(*´﹃`*)



ところでここは「ケネル」という町で、
北海道の白老町と姉妹都市だそうです。
町の中の小学校の校庭に
「北海道の地名」という日本語看板があって
びっくりしたものでした。



●プリンスジョージ到着●

ケネルを過ぎれば、プリンスジョージまで
あと100km少々だ。


この頃にはすっかりカナダに馴染み、
足の痛みも治まって
余裕を持ってゆっくり歩いた。

初期の頃は熊に怯え、言葉も分からず
峠や雪や沙漠で体を痛めつけられ、
キャンプする余裕が無く、
宿泊施設があればモーテルや安宿を
積極利用してたので予算オーバーだったけど、
しばらく前からは積極的にテント泊をし、
楽しく過ごせるようになっていた。

四月も後半になって、気候も暖かくなり
それなりに人家もあるので、
この時期、クマの心配があまり無かったのも
余裕を持てた大きな原因だろう。

そう思うと旅が始まって一ヶ月経過して
ようやく「自分のペース」に
なれたんだろうね。

ずっと田舎道だったけど
やがて交通量が増え、都市近郊の雰囲気。

バンクーバーを出発したのが4月7日。
それから約720km歩いて、
今日はもうすでに5月1日になっていた。
最初の目標地点、人口約7万人のプリンスジョージの町だ。
バンクーバーを除くと、この旅で最大の町。
我ながらよく頑張った。

歩き始めの頃、怖くて不安で
足が震えていたっけ。

だから最初は何千キロもの先を見るのではなく、
まずは700km先のプリンスジョージを目標にしよう、と。
その先どうするかは、
その時考えれば良いんだ、と思ったものだ。

そして「その時」とは、つまり今。

この先、どうする?
この時の僕は自問自答するまでもなかった。

徒歩を続行だ。

次の目標は、カナディアンロッキー山脈を越えて、
アラスカハイウェイの起点の
ドーソンクリークの町まで約400km。

この先、どこまで歩き続けられるかわからないけど、
この感じなら、もっと歩けるかもしれない。

でもひとまずプリンスジョージの町で
数日間休養です!

(つづきます)


次の記事は → (その6)

前の記事は → (その4)



今回の部分は道路は平坦で難所も無く
ホントに単に歩くだけの話でした。

この時は、まだまだ歩けるぞ、と
意気込んでたのだけど、
次回、ついに熊と接近遭遇
かなり真剣に絶体絶命のピンチです!


(その1)どこを、どう行くか!?
(その2)何を持って行くか!?
(その3)バンクーバーから徒歩旅開始!
(その4)雪と沙漠とインディアン
(その5)プリンスジョージの町に到着! ←今ここ
(その6)ついに熊と遭遇!
(その7)徒歩旅の続行と終了
(その8)憧れのアラスカハイウェイを自転車で走る!
(その9)絶不調!この旅最大の失敗
(その10)夢のホワイトホース到達!
(その11)ユーコン川をカヤックで下る
(その12)北極圏を自転車で越える!
(その13)ついに北極海!
(番外編1)テズリン川カヤック旅
(番外編2)チルクート・トレイルを歩いてアラスカへ
(最終回)夢の終わり これからの現実


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